攝津正 in はてなブログ

船橋市民の攝津正のブログです。

一番古い記憶

楳図かずお第一回監督作品『マザー』は期待外れだった。一緒に観た両親も、最近は誰でも彼でも名前が売れれば映画を撮りたがる、お笑いの誰や彼やとか、今度たまたま小説を書いた変り種もいたみたいだが、と不満を漏らしていた。AmazonのレビューではB級のカルトムービーとかなんとかだったが、楳図かずお原作で別の監督さんが撮った『神の左手悪魔の右手』『おろち』のほうがずっと良かった。それは餅は餅屋ということなのか。それはわからないが、ともかくとして……。

──中間小説側からの純文芸的なものへの悪意として、『異型の白昼』のほかに梶山季之の『美男奴隷』を挙げたが、私は三〇年前に讀んでいる。讀めば偉いというものでもないが、とにかくそうである。あらすじを略述すれば、田舎の国語教師と不倫して妊娠した主人公・千絵は堕胎のカネを渡されて単身東京に出るが、ふと思い立ってそのまま故郷にはかえらず、みずからの美貌と身体(=性)を武器にして当地の資産家や名望家の邸宅にお手伝いさんとして入り込み、男たちを篭絡したり騙したりして成り上がっていく。彼女は戦後世界、恐らく六〇~七〇年代の社会風俗的なモンスターというか伝説の存在になっていく。まだ二十歳そこそこの小娘でありながら、名士らの集う社交場やなにやらに美少年たちを従えて傲然と顔を出し、トラブルに際してはそのへんのOLやなにやらの数か月分の給料を迷惑料として置いていく。彼女の謎をスクープしてやろうとして乗り込んだ記者も罠に嵌められて「奴隷」にされていく……。

そういうサクセスストーリーというか悪のサクセスストーリー。ピカレスク・ロマンってヤツですか。ピカレスクってのは「悪漢」と訳されるが、この主人公のような女性も含まれるのかどうかは知らない。さて、この小説がどうして純文芸的なものへの悪意なのかといえば、その最後のページですよ。つまり、冒頭彼女に上京のきっかけを与えた田舎の高校の国語教師は、性懲りもなく別の女生徒に手を出して二人で情死している。その惨めな姿と千絵の成り上がりが残酷に対比されるという幕切れなのです。最後の一行で作者自身の「声」が登場して、千絵のような生き方をどうおもうか、賞賛するか非難するかは皆さん一人一人の自由、とまあありきたりの定型的な文句を述べる。それはそうだが、そういう作品がなにを嘲弄しているのかというのはあまりにも自明だ。

5年以上前の『社会評論』の山口直孝との対談で鎌田が、攝津は哲学が好きだから文学は苦手だとエクスキューズを云々と喋っていたが、実のところはそうではない。私は大抵のことは個々人の主観で自由であるというニヒリズム、価値相対主義の持ち主である。それ以上突っ込んだやかましいギロンはいまは避けるが、数学であるとか、自然科学の法則であるとか、ただ単なる客観的な事実の確認を除けば、あらゆることは個々人の恣意であるとみなしているのである。それはサブカルを含めた文芸文学の好みも同じことで、すべてをただ単なる個人の恣意だから等価と申し上げてよいのかどうかはわからないが、なにはともあれ、そういう領域でなにか「研究」したり、自分一個の感動または嫌悪、無関心にとどまらぬなにかを発言発信しえるとおもわなかったから、文学研究に向かわなかったのである。もしそのあたりで暴勇をふるっていたならば、そもそも学部の時点でバロウズか吉本を「研究」していただろうが、そうしなくて結果的に良かったと思っている。しかしそれにしても私も中途半端で、十代の昔から理数系のセンスや理解力はゼロだったし、政治や社会運動、社会科学・社会学の浅薄にも無関心だったから、または軽蔑していたから、哲学史の勉強に向かったのである。それも僅か数年で、六年ほどで放擲したが、これまた百パーセント正しい選択であり判断であったといえよう。以後はほとんど激動の嵐、修羅の歩みであった。

──私はそのようにおもっており、文学文芸の方面でなにか普遍妥当的な客観的な認識や判断はありえないとおもっているが、それでも3.11以降のこの大混乱とファルス、悲喜劇にさいしてたとえば森鴎外の『妄想』は興味深い。周知のように鷗外は医者・医学者でありまた権力側の人間であり、自然主義的な叛逆とも漱石の文明批評ともやや異なるポジションにいた。この短篇の最後でカトリックの坊主が科学は終わったという宣言を発して随分になるが依然終わる気配はない、という皮肉が述べられている。今日ではマルクス主義の赤い司祭やエコロジーの緑のクソ坊主どもが類似の死亡宣告を発しているが、そんなお笑い種が現実をなにも変えないのも明治の昔と完全完璧に同一である。しかしそれでは、鷗外そのひとやその主人公は科学主義・近代主義なのか。

そんなものであるはずがないだろう。彼はそもそもの幕末の武士としてのおのれにアイデンティティを持っている。彼が直面した西欧とは、一方でキリスト教、他方で近代科学であった。あるひとつの珍妙な信念と、別方面の珍妙な信念が癒合するとどうなるのか。一方で「自己」というかその実体であるところの魂の実在を信仰したく、他方で「科学」的にどうもそれがありえそうもないということになると将来の虚無に怯えざるをえない。

鷗外というこのサムライにはそのような無意味な苦悩は無縁だった。『妄想』の主人公の「苦悩」とは、自分にはそのような西欧近代人のような自己撞着の苦悩がまったく「ない」という自省と自覚なのである。そうすると、ヨーロッパの教養ある人士たちからはひょっとして猿にも等しい未開な存在と遇されるのかもしれない。

それでもよい、というのが漱石とはやや異なる鷗外なりの「自己本位」なのだ。